カール・ヴェンドリンガー

カール・ヴェンドリンガー(Karl Wendlinger、1968年12月20日 - )は、オーストリア出身の元レーシングドライバーである。

カール・ヴェンドリンガー
1999年のヴェンドリンガー
基本情報
国籍 オーストリア
出身地同・クフシュタイン
生年月日 (1968-12-20) 1968年12月20日(55歳)
F1での経歴
活動時期1991 - 1995
所属チーム'91 レイトンハウス
'92 マーチ
'93-'95 ザウバー
出走回数41
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント14
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1991年日本GP
最終戦1995年オーストラリアGP
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カール・ヴェンドリンガー

経歴

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初期のレーシングキャリア

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オーストリアのチロル地方の出身で、祖父も父親もモータースポーツ経験を持つ[注釈 1]。1983年にカートレースを始め、1984年にドイツ・ジュニアカートチャンピオンを獲得した。

1987年にフォーミュラ・フォード1600でオーストリアチャンピオンを獲得。父親の知人であるゲルハルト・ベルガーにスポンサー獲得の協力を受け、ベルガーの師であるヘルムート・マルコF3チームに所属する。1988年にはオーストリアF3杯英語版で、1989年にはドイツF3選手権英語版でチャンピオンを獲得した。

その後、ミハエル・シューマッハハインツ=ハラルド・フレンツェンとともにメルセデス・ベンツの若手ドライバー育成プログラム(メルセデス・ジュニアチーム)のドライバーに選ばれた。この3人はヨッヘン・マスのパートナーとして交代で1990年の世界スポーツプロトタイプカー選手権に参戦しており、日本では「メルセデス三羽烏」と呼ばれた。この年スパ・フランコルシャンで開催された第4戦で1勝を挙げている。また、国際F3000選手権にもヘルムート・マルコが運営するRSM・マルコ英語版から参戦した。

1991年にはフレンツェンがF1への道を焦り国際F3000選手権へのフル参戦を優先し、メルセデスのプログラムから離脱したのに対し、ヴェンドリンガーはシューマッハとコンビを組んで同世界選手権への参戦を継続し、オートポリスで開催された最終戦で優勝した。これは、この年にル・マン24時間レース以外のスプリントレースでプジョー・905ジャガー・XJR-14以外の車両が挙げた唯一の勝利となった。国際F3000では3位1回を獲得した。

ロータスと交渉

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1991年
チーム・ロータスジョニー・ハーバート全日本F3000選手権出場のため欠席する4つのグランプリでの代役としてピーター・コリンズがヴェンドリンガーを第一候補としてオファーし、ファクトリーでシート合わせまで完了した[1]。しかしコリンズから「できれば80万ドル(約1億円)くらいスポンサーを見つけてきてほしい」と言われていたが、これを工面できなかった。そこにこの話を知ったいくつかドイツのスポンサーを持っているミハエル・バルテルス(ヴェンドリンガーとF3時代からライバルでもあった)がロータスのシート獲得に成功し、ロータスでのヴェンドリンガーのF1デビューは流れた。しかし結果的にバルテルスは参戦した4戦すべて予選不通過に終わり、ヴェンドリンガーは「シーズン途中であの車に乗っても、誰がドライブしても難しかっただろう。ドイツGPの予選で苦しんでいた彼を見て、僕は乗らなくて正解だったんだなと思った。」とコメントしている。またこのロータスのほか、「フットワークのマシンにもちょっと乗ったことがあった」と発言している[1]

レイトンハウス(マーチ)時代

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1991年
シーズン終盤の日本GPにて、レイトンハウスにスポンサーを持ち込みイヴァン・カペリのシートを買い取る形でF1デビューを果たした[2]。メルセデス育成プログラムのメンバーとしては、同年の11戦ベルギーGPでのシューマッハに次いでのF1デビューとなった。しかし、決勝レースではスタート直後の最終コーナーでジョーダンアンドレア・デ・チェザリスのスピンに巻き込まれ、スクーデリア・イタリアの2台と共に1周目でリタイヤを喫した。続く最終戦オーストラリアGPでも、12周目に豪雨に足を取られ、クラッシュした[注釈 2]
1992年
チーム加入時に2年契約を結んだため残留は決まっていたが、スポンサーのレイトンハウスが撤退し、チーム名はマーチに戻されるなど確かな参戦体制の決定が遅れたことを受け、万一マーチの参戦が不可能になった場合に備えイギリスのティレルのファクトリーで交渉し、シート合わせまでしていたが、グスタフ・ブルナーを含むマーチの新たな5人の出資者がマーチのF1参戦を保証したため、前年用マシンにわずかな変更を加えて参戦するマーチに残ることとなった。また、開幕前の2月5日には翌1993年からメルセデスの支援下でF1に初参戦するザウバーが、「シューマッハとヴェンドリンガーのコンビでのF1参戦はすでに決定している事項だ」と発表し、翌年以後の心配がいらない参戦状況を得ていた[3]開幕戦南アフリカGPでの予選7位、第3戦ブラジルGP・第4戦スペインGPでの予選9位、第10戦ドイツGPでの予選10位など速さを見せた。決勝レースでは、第7戦カナダGPでサバイバルレースを生き残り、4位入賞。自身初のポイント獲得となった。参戦した14戦中、チームメイトとの予選成績ではポール・ベルモンドに10勝1敗、エマニュエル・ナスペッティに対して3戦全勝と上回った。ザウバーF1への加入が内定していることもあり、終盤の2戦はマーチにスポンサー資金を持ち込んだベテラン、ヤン・ラマースにシートを譲り欠場した。

ザウバー時代

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1993年
グループCでメルセデス・ジュニアチームを運営していたザウバーのF1初年度。前年2月発表されていたシューマッハとのコンビはベネトンが異議を唱え契約の効力がベネトン側にあると認められたため、ヴェンドリンガーとコンビを組むのはJ.J.レートとなった。1992シーズン終了後の合同テストでは新規参戦チームながら前年チャンピオンマシンであるウィリアムズ・FW14Bに次ぐタイムを記録して注目された。第3戦ヨーロッパGPと第4戦サンマリノGPで予選5位につけるなど、チームメイトのレートと共に随所で速さを見せ、イタリアGPの4位を含めて計4度の入賞を果たした。しかし、ザウバー・C12は速さを持つ一方でレースを完走する信頼性に問題を抱えており、リタイヤは序盤の5戦連続を含む9回を数えた。
1994年
ザウバーに残留し開幕戦ブラジルGPで6位入賞、第3戦サンマリノGPでも4位入賞と、順調なシーズンを送っていた。しかし、第4戦モナコGPにおいてフリー走行中に大クラッシュを喫する。トンネル出口でスピンしたマシンは左向き真横の姿勢で滑りながらヌーベルシケインを直進し、その先のプラスチック製防護壁にコクピット側面から衝突した。この際、頭部を激しく打ちつけて昏睡状態に陥り、病院で生命維持装置を付けられた状態となった。直前のサンマリノGPにおいて、ローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの12年ぶりとなる死亡事故が発生したばかりということもあり、F1界に大きな衝撃を与えた[注釈 3]。一時は医師団より「2度と意識が戻ることは無い」とまで言われたが、事故から25日後の6月5日になって意識が回復した[4]。「今日は何日だ?」と尋ねられ日付を答えると、その日付は実際より1ヶ月ずれており、その後も時間感覚のずれに悩まされたという。秋にはF1マシンにテスト走行で乗れる状態まで回復し、事故から半年が経過した第15戦日本GPで実戦復帰が計画されていたが、事前の最終テスト走行で首の痛みを訴えたために慎重を期してシーズン中のカムバックは見送られた[5]
1995年
ザウバーチームは、復帰可能か不明だったヴェンドリンガーの為にシートを空けて待っていた。2月に開かれた'95年新体制発表会の席でヴェンドリンガーとフレンツェンのレギュラードライバー起用が発表されると、記者から「またモナコの同じ場所を走ることに関して不安はあるか?」との質問があった。これに対して「不安は全くないですよ。なぜなら、僕にはモナコでのクラッシュの記憶が全く残っていませんからね(笑)」とジョーク交じりで回答する余裕があった[6]。しかしシーズンが始まると、開幕戦予選初日からヴェンドリンガーの以前の速さは消えており、自身も「どうしてこんなに遅くなってしまったのか分からない」と発言するほどだった[注釈 4]。第5戦モナコGP以降はジャン=クリストフ・ブイヨンにシートを譲り、終盤戦の第16戦日本GPから再度復帰したが結果を残せず、最後の出場となったオーストラリアGPは体調不良により途中棄権することになった。結局同年のF1には6戦の参戦に止まり、以後シートを失った。

F1後

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F1後はFIA-GT選手権ドイツツーリングカー選手権(DTM)、グランダムシリーズなどのツーリングカーレースやスポーツカーレースに参戦し、往年の速さを復活させた。その結果FIA-GT選手権では、1999年にチャンピオンを獲得した。2000年には、デイトナ24時間レースで優勝した。2011年を以って引退した。

評価

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メルセデス・ジュニアチーム時代のヴェンドリンガーは、目立つ存在ではないものの、のちにF1で成功したミハエル・シューマッハやハインツ・ハラルド=フレンツェンに匹敵する評価を得ていた。

  • 「慎重で冷静なドライビングが特徴だ。ペースをつかむのに少々時間を要するが、数日もするとふたりのドイツ人と換わらぬ速さを見せた[7]」 - ヨッヘン・ニアパッシュ(メルセデスのレースディレクター)
  • 「カールは内向的な性格で、マイペースながらドイツ人ふたりに匹敵するタイムは出ていた。あるジャーナリストが『アメリカン・インディアンの魂を宿したチロリアン』と彼を評したことがあった。まさに言い得て妙だと思ったよ[7]」 - ペーター・ザウバー(ザウバー代表)

しかし、優勝どころか表彰台すらも経験しないまま、F1から退くことを余儀なくされた。事故後急激に精彩を欠いたことから、「命と引き換えに速さを失った」と言われることもある。

一方、カール自身はF1離脱後に活躍をしたことから、「回復に時間がかかりすぎ、完治した時にはF1へとカムバックするチャンスがなかった」という旨の発言をしている。

レース戦績

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フォーミュラ

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ドイツ・フォーミュラ3選手権

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チームエンジンクラス123456789101112順位ポイント
1988年クラフト・ヴァルツェン・チームアルファロメオAZOL
Ret
HOC
Ret
NÜR
6
BRN
6
HOC
11
MFA
15
NOR
C
WUN
Ret
SAL
16
NÜR
4
HUN
6
HOC
Ret
11位69
1989年AHOC
DNS
NÜR
4
AVU
1
BRN
4
ÖST
4
HOC
2
WUN
4
HOC
1
DIE
3
NÜR
2
NÜR
7
HOC
14
1位164

国際F3000選手権

編集
チームシャシーエンジン1234567891011順位ポイント
1990年RSMマルコローラ・T90/50コスワースDON
DNQ
SIL
14
PAUJER
DNQ
MNZ
Ret
PER
Ret
HOC
5
BRH
DNQ
BIR
10
BUGNOG
9
21位2
1991年レイナード・91DVLLPAUJER
5
MUGPER
Ret
HOC
3
BRHSPA
Ret
BUG
Ret
NOG12位6

(key)

マカオグランプリ

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チームシャーシー/エンジン予選レース1レース2総合順位
1988年 Marko RSMラルトアルファロメオ21位DNF13NC
1989年9位5DNFNC

F1世界選手権

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所属チームシャシーエンジン1234567891011121314151617WDCポイント
1991年レイトンハウスCG911イルモア・2175A 3.5L V10USABRASMRMONCANMEXFRAGBRGERHUNBELITAPORESPJPN
Ret
AUS
20
37位0
1992年マーチRSA
Ret
MEX
Ret
BRA
Ret
ESP
8
SMR
12
MON
Ret
CAN
4
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
16
HUN
Ret
BEL
11
ITA
10
POR
Ret
JPNAUS12位3
1993年ザウバーC12ザウバー・2175A 3.5L V10RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
Ret
SMR
Ret
ESP
Ret
MON
13
CAN
6
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
9
HUN
6
BEL
Ret
ITA
4
POR
5
JPN
Ret
AUS
15
12位7
1994年C13メルセデス・ベンツ・2175B 3.5L V10BRA
6
PAC
Ret
SMR
4
MON
DNS
ESPCANFRAGBRGERHUNBELITAPOREURJPNAUS19位4
1995年C14フォード・ECA Zetec-R 3.0L V8BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
Ret
ESP
13
MONCANFRAGBRGERHUNBELITAPOREURPACJPN
10
AUS
Ret
28位0

(key)

スポーツカー

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世界スポーツプロトタイプカー選手権/スポーツカー世界選手権

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チーム使用車両クラス123456789順位ポイント
1990年チーム・ザウバー メルセデスザウバー・C9CSUZ
2
5位21
メルセデス・ベンツ・C11MNZ
2
SILSPA
1
DIJNÜRDONMTL
9
MEX
1991年メルセデス・ベンツ・C291C1SUZ
Ret
MNZ
Ret
SIL
2
NÜR
Ret
MAG
Ret
MEX
Ret
AUT
1
9位43
メルセデス・ベンツ・C11C2LMN
5
1992年プジョー・タルボ・スポールプジョー・905C1MNZSILLMN
Ret
DONSUZMAGNC0

FIA GT選手権

編集
チーム使用車両クラス1234567891011順位ポイント
1998年バイパー・チーム・オレカクライスラー・バイパー GTS-RGT2OSC
2
SIL
Ret
HOC
2
DIJ
2
HUN
Ret
SUZ
2
DON
3
A1R
1
HMS
Ret
LAG
DNS
2位38
1999年GTMNZ
1
SIL
1
HOCHUN
2
ZOL
1
OSC
1
DON
1
HMS
2
WGL
2
ZHU
1
1位78
2004年JMBレーシングフェラーリ・575 GTCGTMNZ
Ret
VAL
4
MAG
2
HOC
15
BRN
2
DON
16
SPA
10
IMO
4
OSC
1
DUB
Ret
ZHU
5
5位50.5
2005年マセラティ・MC12 GT1GT1MNZ
5
MAG
1
SIL
4
IMO
4
BRN
2
SPA
2
OSC
2
IST
3
ZHU
6
DUB
4
BHR
Ret
3位71
2006年レース・アライアンスアストンマーティン・DBR9GT1SIL
Ret
BRN
Ret
OSC
7
SPA
8
PRI
4
DIJ
2
MUG
1
HUN
Ret
ADR
Ret
DUB
5
9位32.5
2007年ジェットアライアンス・レーシングGT1ZHU
9
SIL
4
BUC
4
MNZ
1
OSC
Ret
SPA
Ret
ADR
1
BRN
2
NOG
5
ZOL
1
2位57
2008年GT1SIL
1
MNZ
7
ADR
Ret
OSC
1
SPA
Ret
BUC1
DNS
BUC2
DNS
BRN
1
NOG
5
ZOL
3
SUN6位44
2009年KプラスK・モータースポーツサリーン・S7-RGT1SIL
1
ADR
Ret
OSC
10
SPAHUN
DSQ
ALGBRNPRIZOL13位10

アメリカン・ル・マン・シリーズ

編集
チーム使用車両クラス123456789101112順位ポイント
1999年バイパー・チーム・オレカダッジ・バイパー GTS-RGTSSEBATLMOS
2
SNM
3
POR
2
PET
1
LGA
1
LSV
1
2位137
2000年GTSSEB
1
CHA
1
SIL
1
NÜR
1
SNM
2
MOS
1
TEX
2
POR
1
PET
4
LGA
1
LSV
1
ADE
1
2位264
2001年BMWモータースポーツBMW・M3 GTRGTTEXSEBDONJARSNMPORMOSLGAMIAPET
4
NC0

FIA GT1世界選手権

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チーム使用車両1234567891011121314151617181920順位ポイント
2010年スイス・レーシングチーム日産・GT-R GT1ABU
QR

9
ABU
CR

14
SIL
QR

15
SIL
CR

Ret
BRN
QR

12
BRN
CR

10
PRI
QR

21
PRI
CR

15
SPA
QR

16
SPA
CR

12
NÜR
QR

14
NÜR
CR

10
ALG
QR

Ret
ALG
CR

20
NAV
QR

14
NAV
CR

Ret
INT
QR

17
INT
CR

18
SAN
QR

7
SAN
CR

Ret
43位2
2011年ランボルギーニ・ムルシエラゴ R-SVABU
QR

10
ABU
CR

7
ZOL
QR

4
ZOL
CR

4
ALG
QR

10
ALG
CR

5
SAC
QR

12
SAC
CR

Ret
SIL
QR
SIL
CR
NAV
QR
NAV
CR
PRI
QR
PRI
CR
ORD
QR
ORD
CR
BEI
QR
BEI
CR
SAN
QR
SAN
CR
16位31

(key)

ル・マン24時間レース

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ル・マン24時間レース 結果
チームコ・ドライバー使用車両クラス周回順位クラス
順位
1991年 チーム・ザウバーメルセデス ミハエル・シューマッハ
フリッツ・クロイツポイントナー
メルセデス・ベンツ・C11C23555位5位
1992年 プジョー・タルボ・スポール エリック・ヴァン・デ・ポール
アラン・フェルテ
プジョー・905Evo 1BC1208DNFDNF
1996年 ポルシェ AG ヤニック・ダルマス
スコット・グッドイヤー
ポルシェ・911 GT1GT13423位2位
1997年 ルーク・レーシング ステファン・オルテリ
アラン・マクニッシュ
GT18DNFDNF
1998年 バイパー・チーム・オレカ マルク・デュエツ
パトリック・ヒュイスマン
クライスラー・バイパー GTS-RGT228DNFDNF
1999年 オリビエ・ベレッタ
ドミニク・デュプイ
GTS32510位1位
2000年 オリビエ・ベレッタ
ドミニク・デュプイ
GTS3337位1位
2001年 チーム・プレイステーション オリビエ・ベレッタ
ペドロ・ラミー
クライスラー・LMPLMP9002984位3位
2008年 アストンマーティン・レーシング ハインツ=ハラルド・フレンツェン
アンドレア・ピッチーニ
アストンマーティン・DBR9GT133916位4位

デイトナ24時間レース

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デイトナ24時間レース 結果
チームコ・ドライバー使用車両クラス周回順位クラス
順位
2000年 バイパー・チーム・オレカ オリビエ・ベレッタ
ドミニク・デュプイ
ダッジ・バイパー GTS-RGTO7231位1位
2005年 レッドブル・エビモータース ディーター・クエスター
ジョニー・モウレム
ヴィンセント・フォッセ
ポルシェ・911 GT3 CupGT409DNFDNF
2007年 ラゲージエクスプレス・チーム・シグナルスポーツ・BMW ビル・オーバーレン
マシュー・アルハデフ
ジェネ・シーガル
ライリー・Mk.XI-BMWDP367DNFDNF

スパ・フランコルシャン24時間レース

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スパ24時間レース 結果
チームコ・ドライバー使用車両クラス周回順位クラス
順位
2004年 JMBレーシング ベルト・ロンギン
ピエール=イヴ・コルタル
アレックス・ミューラー
フェラーリ・575-GTCマラネロGT48016位4位
2005年 アンドレア・ベルトリーニ
フィリップ・ピーター
マセラティ・MC12 GT1GT15742位2位
2006年 レース・アライアンス フィリップ・ピーター
クリストフ・ブシュー
ロバート・レヒナー
アストンマーティン・DBR9GT141329位8位
2007年 ジェットアライアンス・レーシング ライアン・シャープ
ルーカス・リクトナー=ホイヤー
ロバート・レヒナー
GT1158DNFDNF
2008年 ライアン・シャープ
ルーカス・リクトナー=ホイヤー
アレックス・ミューラー
GT1151DNFDNF
2013年 フォーテック・モータースポーツ オリバー・ウェッブ
アレックス・ブランドル
メルセデス・ベンツ・SLS AMG GT3Pro44931位13位

ツーリングカー

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ドイツツーリングカー選手権

編集
チーム使用車両12345678910111213141516171819202122順位ポイント
1989年スター・マルコRSMメルセデス・ベンツ・190E 2.3-16ZOL
1

27
ZOL
2

Ret
HOC
1

23
HOC
2

16
NÜR
1

23
NÜR
2

DNS
MFA
1

17
MFA
2

14
AVU
1

25
AVU
2

DNS
NÜR
1
NÜR
2
NOR
1

Ret
NOR
2

DNS
HOC
1

18
HOC
2

19
DIE
1

22
DIE
2

14
NÜR
1

17
NÜR
2

Ret
HOC
1

17
HOC
2

20
30位20
1990年AMG・モートレンバウメルセデス・ベンツ・190E 2.3-16 EvoZOL
1
ZOL
2
HOC
1
HOC
2
NÜR
1
NÜR
2
AVU
1
AVU
2
MFA
1
MFA
2
WUN
1
WUN
2
NÜR
1
NÜR
2
NOR
1

23
NOR
2

15
DIE
1

12
DIE
2

13
NÜR
1
NÜR
2
NC0
メルセデス・ベンツ・190E 2.3-16 EvoIIHOC
1

Ret
HOC
2

DNS
2002年アプト・スポーツラインアプト アウディ・TT-RHOC
QR

10
HOC
CR

6
ZOL
QR

12
ZOL
CR

18
DON
QR

7
DON
CR

5
SAC
QR

21
SAC
CR

DNS
NOR
QR

Ret
NOR
CR

12
LAU
QR

10
LAU
CR

Ret
NÜR
QR

6
NÜR
CR

12
A1R
QR

13
A1R
CR

16
ZAN
QR

9
ZAN
CR

19
HOC
QR

4
HOC
CR

Ret
14位3
2003年HOC
15
ADR
12
NÜR
16
LAU
13
NOR
11
DON
15
NÜR
11
A1R
16
ZAN
8
HOC
17
16位1

(key)

ドイツ・スーパーツーリング選手権

編集
チーム使用車両123456789101112131415161718順位ポイント
1996年A.Z.K. ROCコンペティションアウディ・A4 クアトロZOL
1

5
ZOL
2

Ret
ASS
1

5
ASS
2

5
HOC
1

3
HOC
2

2
SAC
1

4
SAC
2

4
WUN
1

3
WUN
2

4
ZWE
1

7
ZWE
2

Ret
SAL
1

12
SAL
2

13
AVU
1

6
AVU
2

5
NÜR
1

10
NÜR
2

5
5位366

(key)

イタリア・スーパーツーリング選手権

編集
チーム使用車両1234567891011121314151617181920順位ポイント
1997年アウディ・スポーツ・イタリアアウディ・A4 クアトロMNZ
1

3
MNZ
2

4
MUG
1

3
MUG
2

4
MAG
1

Ret
MAG
2

Ret
IMO
1

6
IMO
2

6
IMO
1

3
IMO
2

7
BIN
1

3
BIN
2

3
PER
1

4
PER
2

5
VAR
1

3
VAR
2

3
MIS
1

Ret
MIS
2

5
VLL
1

7
VLL
2

6
5位156

(key)

F1での戦歴

編集
  • 1991年 (レイトンハウスCG911・イルモア) 最高位20位  : ノーポイント
  • 1992年 (マーチCG911B・イルモア) 最高位4位 : ランキング12位(3ポイント)
  • 1993年 (ザウバーC12・イルモア[注釈 5]) 最高位4位  : ランキング12位(7ポイント)
  • 1994年 (ザウバーC13・メルセデス) 最高位4位 : ランキング18位(4ポイント)
  • 1995年 (ザウバーC14・フォード) 最高位10位 : ノーポイント
  • ベストグリッド : 5位
  • 決勝最高位 : 4位

脚注

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注釈

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  1. ^ 祖父も父も名前は『カール・ヴェンドリンガー』
  2. ^ その後14周でレースが中止となったため、扱い上は完走している。
  3. ^ このクラッシュを契機にザウバーは翌第5戦スペインGPから独自に頭部を保護するサイドプロテクターを導入した。1995年最終戦オーストラリアGPでのハッキネンの大クラッシュもあり、1996年からレギュレーションでサイドプロテクターが義務付けられるきっかけになった。
  4. ^ 実際には、以前との比較で約200m手前という、通常より遥かに早いタイミングでブレーキングを始める癖が、無意識についてしまっていた。
  5. ^ 実質的にはメルセデスだったが、あくまでもこの年は名義がイルモアだった。

出典

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  1. ^ a b SnapVoice カール・ベンドリンガー Racing On No.109 51頁 1991年12月1日発行
  2. ^ カペリがレイトンハウス離脱・メルセデスベンツから第二の若手登場、22歳のベンドリンガー グランプリ・エクスプレス 1991年日本GP号 47頁 山海堂 1991年11月7日発行
  3. ^ ザウバー、93年からのF1で”シューマッハー事件”再発か グランプリ・エクスプレス プレシーズン号NEWSTOPICS 38頁 1992年3月7日発行
  4. ^ 『F1グランプリ特集』1994年12月号、ソニーマガジンズ、1994年、74頁。
  5. ^ 鈴鹿へ急遽飛んだレート、サウバーから出走 AS+F '94年第15戦日本GP号 67頁 三栄書房 1994年11月24日発行
  6. ^ ザウバー・フォード ニューマシンテスト始動 F1グランプリ特集 vol.069 30頁 1995年3月16日発行
  7. ^ a b 『ミハエル・シューマッハ全記録 1991-2006』 ニューズ出版、2006年、pp.40-41、ISBN 4891074418

関連項目

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タイトル
先代
ヨアヒム・ヴィンケルホック
ドイツF3 チャンピオン
1989
次代
ミハエル・シューマッハ