ハギノカムイオー

ハギノカムイオー(欧字名:Hagino Kamui O1979年4月1日 - 2013年4月10日)は、日本競走馬種牡馬[1]。1979年に北海道静内町で開催されたセリ市において、当時の史上最高価格となる1億8500万円で落札、のち競走馬となり中央競馬で1983年の宝塚記念など重賞6勝を挙げた。主戦騎手伊藤清章[注 1]。その落札額から一時は競馬の世界にとどまらない注目を集め、「黄金の馬」とも称された。半姉に1980年の優駿賞最優秀4歳牝馬ハギノトップレディ(父サンシー)がいる。

ハギノカムイオー
功労馬として過ごすハギノカムイオー
(2007年撮影)
品種サラブレッド[1]
性別[1]
毛色鹿毛[1]
生誕1979年4月1日[1]
死没2013年4月10日(34歳没)
テスコボーイ[1]
イットー[1]
母の父ヴェンチア[1]
生国日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者荻伏牧場[1]
馬主日隈広吉[1]
中村和夫[2]
調教師伊藤修司[1]栗東
厩務員山吉弘[2]
競走成績
生涯成績14戦8勝[1]
獲得賞金2億3112万5200円[1]
勝ち鞍
オープン宝塚記念1983年
オープン高松宮杯1983年
オープンスワンステークス1983年
オープン京都新聞杯1982年
オープンスプリングステークス1982年
オープン神戸新聞杯1982年
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デビューまで

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出生

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1979年4月1日、北海道浦河町荻伏牧場に生まれた。父テスコボーイは前年までに4度のリーディングサイアーを獲得していた当時の最高級種牡馬、母イットーは競走馬時代に重賞2勝を挙げた実力馬であり、その近親には3度の年度表彰を受賞したヤマピットなどがいる有数の良血であった。その血統背景から誕生前より期待を掛けられ、実際に誕生した本馬は気品ある好馬体を持って生まれた[注 2]。浦河町と大樹町に跨る神威岳から名を取られ、幼名は「カムイオー(神威王)」とされる[2]。出生2週間後に牧場を訪れた調教師の伊藤修司を皮切りに、牧場には購買を目的とする来訪者が絶えなかったが、テスコボーイ産駒の牡馬にはセリ市への上場義務があったため、当座の要請は牧場側が全て却下した[2]。そして生後約7ヶ月後の10月23日、カムイオーは日高軽種馬農協主催のセリ市に上場された。

史上最高価格で落札

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当日のセリ会場となった静内家畜センターには、東西の調教師および馬主、生産者など1500人が集まった[2]。この2ヶ月半前には、半姉ハギノトップレディが新馬戦を日本レコードタイムで制しており、カムイオーへの期待はさらに高まっていた。従来の最高落札額は、テスコボーイ産駒ランドギフト[注 3]に付けられた 5000万円であったが、65番目に登場したカムイオーの開始価格はこれを大幅に上回る8000万円と設定された[2]。セリが始まると、まずトップレディ所有者である日隈広吉の代理人を務める伊藤修司が1億円を提示。これに中村和夫玉島忠雄、静内青年部が競り掛け、価格は急上昇していった。1億5000万円の時点で中村と玉島が断念し、以後は伊藤と静内青年部が競り合いを続けたが、伊藤が1億8500万円を提示した時点で静内青年部も断念、これを以て落札となり、カムイオーは日隈広吉の所有馬と決定した[2]。落札の瞬間には会場からどよめきと拍手が起こり、競馬関連マスコミのみならず一般のテレビ、新聞もこの落札を大きく報じた[3]

セリの後、中村和夫が伊藤を通じて日隈に共同所有を持ち掛けた。日隈は1億8500万円の半額を負担することで了承し、カムイオーは日隈、中村の共同所有馬となった[4]。またこの時点で、競走馬引退後は、種牡馬として中村が経営する中村畜産に繋養されることも決定した[5]

入厩

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荻伏牧場で育成調教が積まれた後、競走年齢の3歳を迎えた1981年4月3日、滋賀県栗東トレーニングセンターの伊藤修司厩舎に入る。競走馬名は幼名に日隈が使用する冠名「ハギノ」を加えた「ハギノカムイオー」となった。当日厩舎を訪れた人数は、報道陣、競馬関係者など100人を越えた[4]

その後は姉トップレディと同様に8月の函館開催を目標に調教が進められたが、7月に函館入りした後、左前脚に軽度の亀裂骨折を生じ、放牧に出される[4]。これに伴いデビュー予定は大幅に遅れ、初戦は翌1982年までずれ込んだ。

戦績

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4歳(1982年)

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1月31日、京都競馬場の新馬戦で改めてデビューを迎え、鞍上には伊藤の娘婿であり、トップレディの主戦騎手も務める伊藤清章が配された。当日はおよそ100人の報道カメラマンが揃い[4]、また新馬戦ながら音声実況によって関東の競馬場にも中継された。レースはスタート直後から他馬を引き離すと、そのままゴールまで逃げ切り、2着に7馬身差を付けての初戦勝利を収めた。新馬戦を制したのみにもかかわらず、翌日のスポーツ新聞各紙はこの勝利を一面で報じた[4]

次走はクラシック初戦の皐月賞に備えて東上し、400万下の桜草特別に出走。このレースでも2着に3馬身の差を付けて快勝した。なお、このレースは条件戦にも係わらず当初、準メインレースとして組まれていたが、当日になってメインレースに変更されている。[要出典]特定の馬のために番組変更を行った例はこれ以外にない。

無傷の2連勝を挙げたカムイオーは中1週で皐月賞トライアルのスプリングステークスに出走。これがカムイオーの初の重賞挑戦となり、重賞2連勝中の巨漢サルノキングと対戦した。同馬は前二走でカムイオーと同じく逃げ切り勝利を収めており、どちらが先手を取るかが戦前の注目のひとつであった。しかし、スタート直後から明確に先頭を奪いに行ったカムイオーに対し、サルノキングは騎手の田原成貴が手綱を抑えて後方を追走、道中では馬群から20馬身離れた最後方を進んだ。その後サルノキングは第2コーナーから突然加速しながら先行集団に追い付いたが、最後の直線で失速、結局カムイオーがゴールまで逃げ切り、3連勝で重賞初勝利を挙げた。一方でサルノキング田原の騎乗は批判を浴び、またサルノキングがカムイオーと同じく中村和夫の所有馬であったことから、八百長ではないかとの疑惑も持ち上がった(詳細はサルノキング事件参照)[6]

騒動の後に迎えた皐月賞では1番人気に支持されたが、戦前から「逃げ宣言」をしていた加賀武見騎乗のゲイルスポートに先頭を奪われると、同馬と競り合っての前半600メートル通過は34秒9と、皐月賞史上最速のペースとなった[4]。この結果、第3コーナーでゲイルスポートともども失速、アズマハンターの16着と大敗した。東京優駿(日本ダービー)に向けて出走したNHK杯ダービートライアル)もゲイルスポートに執拗に絡まれ、12着と大敗した。これを受けて陣営はダービー出走を断念し、カムイオーは荻伏牧場で休養に入った。ゲイルスポートは最終的に条件馬のまま終わったが、これらの経緯から「カムイオーの天敵」として名を残している。

秋は菊花賞を目標に神戸新聞杯から復帰、日本ダービー優勝馬のバンブーアトラスを3着に退け、逃げ切りでの勝利を収めた。続く京都新聞杯(菊花賞トライアル)では初めて道中2番手に控えると、直線で抜け出して優勝した。重賞2連勝と、前走のレース振りから2番手以下に控えるレースも可能になったと見られ、迎えた菊花賞では1番人気に支持された。レースではスタートから先頭を奪うと、1000m通過59秒5というハイペースで、後続を10馬身以上引き離す大逃げを打ったが第3コーナーで急激に失速し、15着と惨敗した。カムイオーのハイペースに引っ張られ、優勝馬ホリスキーの走破タイム3分5秒4は芝3000mの世界レコードタイム(当時)となった。

5歳(1983年)

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菊花賞の後、カムイオーは福島県いわき市競走馬総合研究所で温泉療養に入った[7]。翌1983年5月にスワンステークスで復帰、初の単枠指定を受けて1番人気に支持されると、スタートからの逃げ切りで勝利、母イットーとの親子制覇となった。続いて出走した春のグランプリ宝塚記念では、単騎逃げから直線でカズシゲを5馬身突き離し、芝2200mを2分12秒1という日本レコードタイムで優勝した。また、本競走の賞金加算分で収得賞金は1億9104万円となり、賞金額が自身の購買額を上回った。続く高松宮杯も逃げ切り、スワンステークスに続く親子制覇、さらに前々年度に優勝したハギノトップレディとの姉弟制覇も果たした。

休養を経て、秋はジャパンカップ有馬記念を目標に、11月に東京競馬場のオープン戦で復帰した。しかしこの緒戦で8頭立て7着に終わると、続くジャパンカップでは道中で後続を30馬身以上離す暴走を見せ、第3コーナーで失速、勝ったスタネーラから7秒以上離された最下位と惨敗した。それでも年末のグランプリ有馬記念にはファン投票第3位選出で出走したが、やはり逃げ潰れての最下位に終わった。

競走後、伊藤はカムイオーの引退を発表。引退の言は「これ以上ファンの夢を壊したくない」というものであった[7]。翌年1月8日、京都競馬場で引退式が行われ、翌9日に種牡馬入りのため北海道に戻った。

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[8]およびJBISサーチ[9]の情報に基づく。

競走日競馬場競走名距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順タイム着差騎手斤量
[kg]
1着馬(2着馬)
1982.01.31京都新馬芝1600m(良)877001.7(1人)01着01:36.87身0伊藤清章55(ドクタータケシバ)
03.14中山桜草特別芝2000m(良)1122001.3(1人)01着02:03.27身0伊藤清章55タカラテンリュウ
03.28中山スプリングS芝1800m(良)11710003.1(2人)01着01:51.502 1/2身0伊藤清章56ワカテンザン
04.18中山皐月賞芝2000m(良)21613002.9(1人)16着02:05.63.1秒0伊藤清章57アズマハンター
05.09東京NHK杯芝2000m(良)1635004.0(2人)12着02:02.91.4秒0伊藤清章56アスワン
10.03阪神神戸新聞杯芝2000m(良)811004.3(3人)01着01:59.901 1/4身0伊藤清章56ロングヒエン
10.24京都京都新聞杯芝2000m(良)14711004.1(2人)01着02:02.81/2身0伊藤清章56(アカネジローマル)
11.14京都菊花賞芝3000m(良)2136006.4(1人)14着03:08.43.1秒0伊藤清章57ホリスキー
1983.05.15京都スワンS芝1600m(良)1735001.5(1人)01着01:35.12身0伊藤清章58(メイショウキング)
06.05阪神宝塚記念芝2200m(良)13711001.9(1人)01着R2:12.15身0伊藤清章56カズシゲ
06.26中京高松宮杯芝2000m(良)888001.3(1人)01着02:01.101 1/4身0伊藤清章58(イーストボーイ)
11.12東京オープン芝1800m(稍)866001.7(1人)07着01:54.83.6秒0伊藤清章57エイティトウショウ
11.27東京ジャパンカップ芝2400m(良)1611019.9(6人)16着02:34.97.3秒0伊藤清章57スタネーラ
12.25中山有馬記念芝2500m(良)16714017.7(7人)16着02:37.23.2秒0小島太57リードホーユー
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

引退後

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引退後は日隈と中村の共同所有のまま種牡馬となり、中村が北海道三石町で経営するスタリオン中村畜産で繋養された。種付料200万円は、当時の内国産種牡馬としてはマルゼンスキーに次ぐ高額であり、1981年に全日本リーディングサイアーを獲得したアローエクスプレスと同額であった[7]

子供は1987年から競馬にデビューしたが、種牡馬としては期待を裏切り、目立った成績を残すことはできなかった。地方競馬で数頭の重賞勝利馬を出しているほか、中央では1992年7月に牝駒ハギノピリカが小倉競馬場の芝1000mのレコード(56秒4)を記録し、翌8月にはハギノスイセイが新潟競馬場の芝1400mのレコード(1分20秒8)を記録した。ブルードメアサイアー(母の父)としてはテイエムオオアラシシンカイウンが、それぞれ中央競馬で重賞に勝利している。

2000年を最後に種牡馬生活からも退き、新ひだか町の本桐牧場で功労馬として余生を送る。シンザンの持つサラブレッド長寿記録に迫りつつあったが[10]2013年4月10日に同牧場で老衰のため死亡した[11]。34歳9日であった。

主な産駒

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母の父として

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血統表

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4代母マイリーから連なる牝系は俗に「華麗なる一族」と呼ばれ、1990年代頃まで日本の名牝系の代表的な存在であった。中でも本馬の系統はその本流とされるものであり、叔父にそれぞれ重賞勝利馬であるニッポーキング、本馬の同期であったシルクテンザンオー、サクラアケボノ、姪にGI競走2勝のダイイチルビーなど数々の活躍馬がいる。その他の近親については華麗なる一族を参照のこと。

ハギノカムイオー血統テスコボーイ系 / Nasrullah3×5×5=18.75%、Pharos(Fiarway)5×5×5=9.38%)(血統表の出典)[§ 1]
父系テスコボーイ系

*テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛
父の父
Princely Gift
1951 鹿毛
NasrullahNearco
Mumtaz Begum
Blue GemBlue Peter
Sparkle
父の母
Suncourt
1952 黒鹿毛
HyperionGainsborough
Selene
InquisitionDastur
Jury

イットー
1971 黒鹿毛
*ヴェンチア
Venture
1957 黒鹿毛
RelicWar Relic
Bridal Colors
Rose o'LynnPherozshah
Rocklyn
母の母
ミスマルミチ
1965 鹿毛
*ネヴァービートNever Say Die
Bride Elect
キユーピツトNearula
*マイリー
母系(F-No.)マイリー系(FN:7-e)[§ 2]
5代内の近親交配Nasrullah 3×5・5、Pharos 5×5
出典
  1. ^ [19]
  2. ^ [20][19]


脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の姓。のちに伊藤修司の娘である妻と離婚し、婿入り前の姓である上野清章に戻った。
  2. ^ 荻伏牧場代表の斎藤隆は「10年1頭出るか出ない、サラブレッドの理想像に思えました」と語っている。(『優駿』1989年3月号 p.39)
  3. ^ 曾祖母にクレオパトラトマスが、半姉の玄孫にゴールドシップがいる

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n ハギノカムイオー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『優駿』1989年3月号 p.39
  3. ^ 『日本名馬物語』p.28
  4. ^ a b c d e f 『優駿』1989年3月号 p.40
  5. ^ 『忘れられない名馬100』p.162
  6. ^ 『競馬歴史新聞』p.145
  7. ^ a b c 『優駿』1989年3月号 p.42
  8. ^ "ハギノカムイオーの競走成績". netkeiba.com. 2021年5月13日閲覧
  9. ^ "競走成績:年度別累計成績/主な成績|ハギノカムイオー". JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧
  10. ^ 名馬ハギノカムイオー34歳に 最長寿記録も見えた - YOMIURI ONLINE(読売新聞社)2013年3月31日配信
  11. ^ ハギノカムイオー死ぬ 宝塚記念を日本レコードで制す - スポニチアネックス(スポーツニッポン新聞社)2013年4月10日配信
  12. ^ カムイフアースト”. JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧。
  13. ^ ハギノミリオネール”. JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧。
  14. ^ フリーダムワールド”. JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧。
  15. ^ カムイフジ”. JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧。
  16. ^ ハギノスイセイ”. JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧。
  17. ^ テイエムオオアラシ”. 2021年5月13日閲覧。
  18. ^ シンカイウン”. JBISサーチ. 2021年5月13日閲覧。
  19. ^ a b 血統情報:5代血統表|ハギノカムイオー”. JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2019年1月21日閲覧。
  20. ^ Lady Josephine系”. 栗山求 Official Website. 2019年1月21日閲覧。

参考文献

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  • 横尾一彦「黄金の貴公子 - ハギノカムイオー」(『優駿』1989年3月号〈日本中央競馬会、1989年〉所収)
  • 諏訪間清「1億8500万円でセリ落とされた名血馬 - ハギノカムイオー」(『忘れられない名馬100』〈学研、1996年〉所収)
  • サラブレ編集部・編『日本名馬物語 - 甦る80年代の熱き伝説』(講談社、2007年)

外部リンク

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