ホセ・カルドーソ

パラグアイのサッカー選手

ホセ・カルドーソJosé Saturnino Cardozo Otazú, ローカル発音: [xoˈse saturˈnino karˈðoso otaˈsu], 1971年3月19日 - )は、パラグアイ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード

ホセ・カルドーソ
名前
本名ホセ・サトゥルニーノ・カルドーソ・オタス
José Saturnino Cardozo Otazú
ラテン文字Jose CARDOZO
基本情報
国籍パラグアイの旗 パラグアイ
生年月日 (1971-03-19) 1971年3月19日(53歳)
出身地ヌエバ・イタリアスペイン語版
身長183cm
選手情報
ポジションFW
ユース
ウニオン・パシフィコ
クラブ1
クラブ出場(得点)
1988-1990パラグアイの旗 リーベル・プレート 26 (10)
1990-1992スイスの旗 ザンクト・ガレン 37 (15)
1992-1993チリの旗 ウニベルシダ・カトリカ 35 (11)
1994-1995パラグアイの旗 オリンピア 41 (27)
1995-2005メキシコの旗 トルーカ 332 (249)
2005-2006アルゼンチンの旗 サン・ロレンソ 23 (5)
通算494 (316)
代表歴
1992-1995パラグアイの旗 パラグアイ U-2311 (7)
1991-2006パラグアイの旗 パラグアイ83 (25)
監督歴
2006-2007パラグアイの旗 オリンピア
2009メキシコの旗 インディオス (アシスタント)
2009-2011パラグアイの旗 オリンピア
2011-2012メキシコの旗 ケレタロ
2012-2013パラグアイの旗 オリンピア
2013パラグアイの旗 スポルティボ・ルケーニョ
2013-2016メキシコの旗 トルーカ
2016メキシコの旗 チアパス
2017メキシコの旗 プエブラ
2017メキシコの旗 ベラクルス
2018-メキシコの旗 CDグアダラハラ
獲得メダル
サッカー
オリンピック
2004 アテネサッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

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選手経歴

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クラブ

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1988年、パラグアイのクラブ・リーベル・プレートスペイン語版からデビューし、その4年後の1990年にスイスのFCザンクト・ガレンに移籍した。1993年に南米に戻り、チリのウニベルシダ・カトリカでは1993年のコパ・リベルタドーレス決勝進出に貢献した。翌年にはパラグアイのオリンピア・アスンシオンでプレーし、1995年にメキシコのデポルティーボ・トルーカFCに移籍した。1995年シーズンは3試合の出場に終わったが、つづくアペルトゥーラでは13試合で7得点を挙げた。1997年にはハムストリングの負傷に苦しみ、2001年にはシーズン開幕戦で手首を骨折したが試合に出場しつづけた。アペルトゥーラ2002では29得点を挙げ、そのシーズンの得点王に輝いた[1]。アペルトゥーラ2004では14得点を挙げた。トルーカでの活躍から、2000年、2002年、2003年にはパラグアイ年間最優秀選手賞スペイン語版を受賞し、2002年には南米年間最優秀選手賞を受賞した。トルーカでは10年間プレーし、332試合に出場してクラブ史上最多の249得点を挙げた[2]プリメーラ・ディビシオン(1部)全体でも歴代3位の得点数を記録していたが、2005年4月24日にはハレド・ボルヘッティが250得点目を挙げ、カルドーソはボルヘッティに抜かれて歴代4位となった。

2005年6月にはアルゼンチンのCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロに移籍したが、負傷の影響で何試合も欠場し、シーズンを通じて4得点に終わった。2006年7月、キャリアの幕を閉じるためにオリンピア・アスンシオンへの移籍を試みたが、パラグアイ・リーグの移籍期限を過ぎていたためにオリンピアと再契約することができず、選手生活からの引退を発表した。選手生活を通じて342得点を挙げた。2008年6月、トルーカでカルドーソの貢献を称える引退記念試合が行なわれ、満員の観衆の前で2得点を挙げた[3]

代表

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パラグアイ代表としてはフランスで開催された1998 FIFAワールドカップ、日本と韓国で共催された2002 FIFAワールドカップに出場した。2004年にはアテネオリンピックオーバーエイジ枠で出場し、パラグアイは銀メダルを獲得した。2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ウルグアイ戦 (4-1) ではハットトリックを達成した。ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ本大会でも登録メンバーに含まれたが、合宿中に負傷してメンバーから外れ、代わりにダンテ・ロペスが招集された。パラグアイ代表としては83試合に出場して25得点を挙げており、2013年にロケ・サンタ・クルスに更新されるまでは最多得点記録保持者であった[4]

指導者経歴

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2006年11月、成績不振を理由にオリンピア・アスンシオンオスカル・パウリンスペイン語版監督が解任された。指導者としての経験がないカルドーソが暫定監督に就任し、その年の残りと2007アペルトゥーラを指揮した。2009年10月にはCFインディオススペイン語版のアシスタントコーチに就任したが[5]、11月、グレゴリオ・ペレススペイン語版監督の後任としてオリンピアの監督に就任した。2011年にはメキシコのケレタロFCの監督に就任。アペルトゥーラ2011ではクラブ史上最高の勝ち点26を獲得し、クラブ史上最高位の8位で初のリギージャ進出に導いた。リギージャ準々決勝ではCDグアダラハラを破ったが、準決勝では優勝したUANLティグレスに0-1で敗れた。クラウスーラ2012は低調な成績で17位に終わり、CFアトラスエストゥディアンテス・テコスとともに残留争いに巻き込まれた。3シーズンの通算成績で18クラブ中17位となり、かろうじて残留を果たしたものの、カルドーソはケレタロ監督を辞任した。2012年11月25日、グレゴリオ・ペレス監督の後任として再びオリンピア監督に就任した。2013年5月7日、選手として10年間プレーしたデポルティーボ・トルーカFCの監督兼テクニカル・ディレクターに就任した。

個人成績

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代表での得点

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#日付場所対戦相手スコア勝敗大会
1.1991年7月12日 コンセプシオン アルゼンチン1-4コパ・アメリカ1991
2.1995年6月22日 サンティアゴ ニュージーランド3-2コパ・センテナリオ1995
3.1995年7月6日 マルドナド メキシコ2-1コパ・アメリカ1995
4.1995年7月12日 マルドナド ベネズエラ3-2コパ・アメリカ1995
5.1996年7月26日 アスンシオン ボリビア2-0親善試合
6.1997年4月30日 アスンシオン ウルグアイ3-11998 FIFAワールドカップ・南米予選
7.1998年6月3日 ブカレスト ルーマニア2-3親善試合
8.1998年6月24日 トゥールーズ ナイジェリア3-11998 FIFAワールドカップ
9.2000年6月29日 サンティアゴ チリ1-32002 FIFAワールドカップ・南米予選
10.2000年9月2日 アスンシオン ベネズエラ3-02002 FIFAワールドカップ・南米予選
11.2000年11月15日 アスンシオン ペルー5-12002 FIFAワールドカップ・南米予選
12.2001年4月24日 キト エクアドル1-22002 FIFAワールドカップ・南米予選
13.2001年9月5日 アスンシオン ボリビア5-12002 FIFAワールドカップ・南米予選
14.
15.2002年2月13日 シウダー・デル・エステ ボリビア2-2親善試合
16.2003年3月26日 サンディエゴ メキシコ1-1親善試合
17.2003年9月10日 アスンシオン ウルグアイ4-12006 FIFAワールドカップ・南米予選
18.
19.
20.2003年11月15日 アスンシオン エクアドル2-12006 FIFAワールドカップ・南米予選
21.2004年6月1日 ラパス ボリビア1-22006 FIFAワールドカップ・南米予選
22.2005年1月19日 ロサンゼルス 韓国1-1親善試合
23.2005年3月27日 キト エクアドル2-52006 FIFAワールドカップ・南米予選
24.2005年3月30日 アスンシオン チリ2-12006 FIFAワールドカップ・南米予選
25.2005年5月27日 オーフス デンマーク1-1親善試合

タイトル

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クラブ

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オリンピア
トルーカ

代表

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U-23パラグアイ代表
  • U-23南米選手権 (1) : 1992

個人

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脚注

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外部リンク

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