マイク・クェイヤー

キューバ系アメリカ人の野球選手 (1937 - 2010)

ミゲル・アンヘル・クェイヤー・サンタナMiguel Angel Cuellar Santana , 1937年5月8日 - 2010年4月2日)は、キューバサンタ・クララ州(現:ビジャ・クララ州サンタ・クララ出身のプロ野球選手投手)。左投げ左打ち。

マイク・クェイヤー
Mike Cuellar
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[1]
出身地 キューバ
サンタ・クララ州サンタ・クララ
生年月日 (1937-05-08) 1937年5月8日
没年月日 (2010-04-02) 2010年4月2日(72歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1957年 アマチュアFA
初出場1959年4月18日
最終出場1977年5月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

愛称"Crazy Horse"クレイジー・ホース)。

経歴

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フルヘンシオ・バティスタ政権時代のキューバでは軍人で、1955年陸軍チームの選手としてノーヒットノーランを達成し、注目を集めた。

1957年MLBシンシナティ・レッズと契約を結び、入団した。

1959年4月18日の対フィラデルフィア・フィリーズ戦でMLB初登板。この年は2試合にリリーフで登板し、防御率15.75の成績でマイナーリーグに降格した。

1960年から1963年までの4シーズンはマイナー(デトロイト・タイガースクリーブランド・インディアンス傘下のチームに移籍)、およびメキシカンリーグのみで登板した。

1964年セントルイス・カージナルスで5年ぶりにMLBに昇格。主にリリーフで5勝5敗4セーブを挙げた。1965年4月15日にはトレードヒューストン・アストロズへ移籍した。

アストロズ移籍2年目の1966年に12勝10勝・防御率2.22の好成績を挙げ、1967年には16勝11敗と勝ち星を伸ばし、オールスターゲームにも選ばれた。1968年には防御率2.74ながら味方打線の援護が少なくて8勝11敗に終わると、この年限りでトレードでボルチモア・オリオールズへ移籍した。

オリオールズ移籍初年度の1969年にはスクリューボールチェンジアップを武器として23勝11敗・防御率2.38の活躍でデニー・マクレインとともにサイ・ヤング賞を受賞した。同賞初のラテンアメリカ出身選手の受賞となった。この年より東西2地区制が導入され、オリオールズはアメリカンリーグの東地区優勝を収め、リーグチャンピオンシップシリーズ第1戦の先発投手を務めた。チームはミネソタ・ツインズを下し、ワールドシリーズに進出した。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでも第1戦で先発し、メッツ打線を1点に抑えて完投勝利を収めたが、これがチーム唯一の勝利となった。第4戦にも先発して7を投げて1失点に抑えるが、延長戦の10回に1-2でサヨナラ負けを喫し、第5戦にも敗れてワールドチャンピオンを逃した。

1970年には24勝8敗・防御率3.48・190奪三振・リーグ最多21完投を記録し、最多勝のタイトルを獲得した。チームは2年連続で地区優勝を果たした。ツインズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは再び第1戦に先発。満塁本塁打を放つ。[2]2012年終了時点で、両リーグを問わず、リーグチャンピオンシップシリーズ史上唯一の投手の満塁本塁打となっている。チームは10-6で勝ったが、自身は5回途中に降板したため、勝利投手にはなっていない。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは第2戦に先発。3回4失点で降板するが、チームは逆転勝利。3勝1敗とレッズを追い込んだ後の第5戦に再び先発して初回に3点を失うが、以後立ち直って9-3で完投勝利を収め、チームをワールドチャンピオンに導いた。

1971年は20勝9敗・防御率3.08を記録。この年にチームメイトのデーブ・マクナリーが21勝、ジム・パーマーパット・ドブソンがそれぞれ20勝を挙げ、1920年シカゴ・ホワイトソックス以来のMLB史上2チーム目の1チームで20勝投手4人という快挙となった。5人体制の先発ローテーションが完全に定着し、全体でも20勝を挙げる投手が珍しくなった現在では、より一層記録更新が難しくなった記録である。この年もチームは地区優勝。オークランド・アスレチックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦ではキャットフィッシュ・ハンターに投げ勝って勝利投手となった。ピッツバーグ・パイレーツにはワールドシリーズでは第3戦に敗れ、3勝3敗で迎えた第7戦でもパイレーツ打線を2点に抑えたが敗れ、2年連続のワールドチャンピオンを逃した。この年の秋にはオリオールズが日米野球で単独チームで日本を訪れている。

1972年から1974年までの3年間は安定して20勝前後を記録した。1973年と1974年には地区優勝するが、いずれもリーグチャンピオンシップシリーズで当時ワールドシリーズ3連覇を達成したアスレチックスに敗れた。

1976年は4勝13敗に終わり、この年限りでフリーエージェント(FA)でカリフォルニア・エンゼルスへ移籍するが、2試合に登板した時点で放出され、現役を引退した。

投手としての主な球種はスクリューボール、スライダー、スローカーブ、チェンジアップ(米書 「guide to pitchers」)より

1979年に42歳で「現役復帰」し、プエルトリコウィンターリーグ"リーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・プエルトリコ"とメキシカンリーグでプレーした。

1982年オリオールズ野球殿堂入りを果たした[3]

1984年キューバ野球殿堂入りを果たした[4]

現役引退後はフロリダ州オーランドに在住していた。2010年4月2日胃癌のため、死去[5]。72歳没。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1959CIN20000000------244.0714105108715.752.75
1964STL327101554--.50032072.08083341561043364.501.57
1965HOU254000142--.20023856.05532141462024223.541.36
19663828111212102--.545913227.11931052801759179562.221.08
19673632163216111--.5931021246.12331663312031199833.031.20
1968282411238111--.421700170.2152845711332060522.741.15
1969BAL3939185423110--.6761137290.22131879711823294772.381.00
1970404021422480--.7501214297.2273346951190611261153.481.15
1971383821432090--.6901166292.1250307811124301111003.081.12
19723535174418120--.600989248.11972171401323078712.571.08
19733838172318130--.5811127267.026529842014080120973.271.31
19743838205122100--.6881111269.125317864210620106933.111.26
19753636175014120--.5381034256.0229178451105711121043.661.22
197626192104131--.235490107.012985052325063594.961.67
1977CAL21000010--.000213.1923103007718.903.60
MLB:15年453379172362518513011--.587115052808.025382228226112163253611309793.141.20
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 

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表彰・記録 

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背番号

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  • 32 (1959年)
  • 35 (1964年 - 1977年)

脚注

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  1. ^ Mike Cuellar” (英語). NNDB.com. 2013年4月28日閲覧。
  2. ^ 当時のアメリカンリーグは指名打者制度は未導入であった。
  3. ^ HALL OF FAME INDUCTEES - ALPHABETICAL” (英語). The Oriole Advocates. 2013年4月16日閲覧。
  4. ^ Cuban Baseball Hall of Fame” (英語). Baseball-Almanac.com. 2013年4月16日閲覧。
  5. ^ Orioles pitching great Mike Cuellar dies at 72” (英語). The Baltimore Sun. 2013年4月16日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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