平岡 一郎(ひらおか いちろう、1945年8月14日 - 1995年11月17日)は、日本の元プロ野球選手投手)。左投げ左打ち。

平岡 一郎
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地神奈川県小田原市
生年月日 (1945-08-14) 1945年8月14日
没年月日 (1995-11-17) 1995年11月17日(50歳没)
身長
体重
172 cm
71 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1965年
初出場1965年
最終出場1976年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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神奈川県小田原市出身。横浜高校では2年生時の1963年、1年上のエース井上健仁(東映)の控え投手として夏の甲子園に初出場。準決勝に進出するが、この大会に優勝した明星高に敗退する。平岡は3回戦、準決勝でリリーフに立った。この時のチームメートに二塁手佐野勝稔がいる。

1964年はエースとして春季関東大会に進むが準々決勝で大宮高に敗退。夏の甲子園県予選も準々決勝で武相高に敗れた。高校同期に外野手の灰山公章(芝工大三菱重工川崎日本楽器)がいた。

1965年大洋ホエールズに入団。1年目から一軍で31試合に登板、3勝をあげる。9月12日の初先発では中日を相手に8回2/3を2失点と好投し初勝利、続く18日には広島に9回1失点で初完投勝利。

1967年1968年にはリーグ最多登板を記録した。ローテーションの谷間には先発もこなす。1968年9月11日には阪神を相手に先発、ジーン・バッキーと投げ合い3安打無失点の好投で初完封勝利を飾る。

当時の三原脩監督から重用され、特に王貞治相手のワンポイントに起用されて「王キラー」と呼ばれる。王相手には通算50打数13安打、打率.260、10奪三振で被本塁打ゼロを記録。ただ王に言わせると「苦手とは思っていない」との事で、11シーズン対戦して、最後の6年間で19打数8安打と打ちこんでいる。

1970年には「日本シリーズ巨人対策」の一つとして、当時の濃人渉監督に請われ、坂井勝二との交換トレードでロッテオリオンズに移籍。実際に1970年の日本シリーズで4試合に登板した。

1971年池田重喜との交換トレードでまた大洋に戻る。

1976年広島東洋カープに移籍。

1977年限りで引退。引退後は品川発条製作所につとめていた。

1972年7月12日、広島相手のダブルヘッダーに連投し、同年3勝中の2勝を1日で挙げる珍記録も達成している。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1965大洋31610033----.50028669.05532912521123151.961.22
196637100015----.16725961.25562533331131273.961.30
196757300045----.44433575.27953302540037313.671.48
196866511026----.25030273.16062113630028263.211.10
1969441121146----.40037592.174103114662141393.821.14
1970ロッテ20100011----.50011723.12951841141020197.432.01
1971大洋31600031----.75019649.0422802311010101.841.02
197229600031----.75023955.25123043390018142.251.46
197324200012----.33311826.13031611131016144.851.75
197481000000------366.0143400000101015.003.00
1976広島20000000------112.0303000003313.503.00
通算:11年3494242122300--.4232274534.1492452181521365732372083.511.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

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  • 46 (1965年 - 1968年)
  • 15 (1969年、1971年 - 1974年)
  • 14 (1970年)
  • 55 (1975年)
  • 18 (1976年)
  • 49 (1977年)

関連項目

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