波多野敬直

日本の官僚、政治家

波多野 敬直(はたの よしなお[注釈 1]1850年11月13日嘉永3年10月10日) - 1922年大正11年)8月29日)は、明治大正時代の官僚政治家司法大臣宮内大臣などを歴任した。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵[1]。墓所は永平寺東京別院長谷寺

波多野敬直
はたの よしなお
生年月日1850年11月13日
出生地日本の旗 日本 肥前国小城郡牛津
(現佐賀県小城市
没年月日 (1922-08-29) 1922年8月29日(71歳没)
出身校大学南校
(現東京大学
前職司法総務長官
称号旭日桐花大綬章
正二位
ヴィクトリア第一勲章
白鷲勲章
旭日大綬章
大礼記念章(大正)
正三位
勲一等瑞宝章
従三位
正四位
勲三等瑞宝章
従四位
勲四等瑞宝章
正五位
勲五等瑞宝章
従五位
正六位
単光旭日章
勲六等瑞宝章
大日本帝国憲法発布記念章
従六位
子女次男・波多野二郎
親族弟・野口能毅(佐賀市長)

日本の旗 第6代 宮内大臣
在任期間1914年4月9日 - 1920年6月18日
天皇大正天皇

日本の旗 第12代 司法大臣
内閣第1次桂内閣
在任期間1903年9月22日 - 1906年1月7日

在任期間1906年1月7日 - 1911年6月7日
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波多野敬直

生涯

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1850年嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現・佐賀県小城市)に小城藩横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、熊本の木下塾、大学南校ドイツ語などに学び、1873年(明治6年)、江藤新平が司法卿を務めた司法省に出仕。十二等判事に任じられた[2]

1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。1903年(明治36年)、第1次桂内閣司法大臣を務める。

1906年(明治39年)には貴族院議員(勅選議員)となった。1907年(明治40年)、日露戦争の功労として男爵を授けられ、華族に列した。

1911年(明治44年)には東宮大夫として宮内省に転じる。1912年(大正元年)に東宮侍従長を兼任。

宮内大臣

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1914年(大正3年)4月9日に宮内大臣となったが、これは昭憲皇太后崩御の当日という極めて異例なものだった[3]。これは前任の渡辺千秋宮内大臣の汚職が発覚したためであり、皇太后崩御発表(4月11日)前に宮内大臣を変える必要があったためであった[3]。1917年(大正6年)には功によって子爵にのぼった。しかし宮中に強い影響力を持つ元老山縣有朋との関係は良くなく、波多野は山縣が無理を言ってきて困ったと回想し[4]、山縣も波多野のもとでは「事務運ばず」と不満を述べている[5]。1920年(大正9年)6月19日に波多野の辞職が発表され、新聞報道でも「寝耳に水」と驚きを持って迎えられた[5]。山縣は5月15日に行われた皇族会議での失態を取り上げており、これは皇族臣籍降下問題における、皇族からの反発を抑えることができなかったことを指している[6]。この機に山縣は松方正義西園寺公望ら他の元老とともに辞職を勧告、波多野もすぐにこれに応じた[7]。山縣は辞職後に枢密顧問官とする方針を伝えたが、波多野は断っている[7]原敬は山縣が自派で宮中を独占するために波多野を辞職に追い込んだと見ている[8]久邇宮良子女王色覚異常問題が表面化すると(宮中某重大事件)、山縣が皇太子妃を辞退させるために波多野を辞職に追い込んだという観測が見られるようになり、倉富勇三郎も原因の一つではないかと推測している[9]

1922年(大正11年)、73歳で死去。正二位勲一等旭日桐花大綬章が贈られた。

略年譜

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  • 1850年(嘉永3年)10月 - 肥前国に出生。
  • 1873年(明治 6年) - 司法省出仕。
  • 1891年(明治24年) - 大審院判事。
  • 1900年(明治33年) - 司法省総務長官兼官房長
  • 1903年(明治36年) - 司法大臣第1次桂内閣)。
  • 1906年(明治39年)1月7日[10] - 貴族院議員(在任:〜1911年6月7日[11])。
  • 1907年(明治40年) - 男爵
  • 1911年(明治44年)6月2日[12] - 東宮大夫
  • 1912年(大正元年)9月21日[13] - 東宮大夫兼東宮侍従長。
  • 1914年(大正3年)4月9日 宮内大臣[14]
  • 1917年(大正6年)6月5日[15] - 子爵
  • 1922年(大正11年)8月 - 死去。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜・家族

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戦国大名であった丹波波多野氏の一族・波多野宗高(氷上波多野家)の末裔にあたるという。祖先は戦国末期に肥前龍造寺氏鍋島氏に仕え、小城鍋島家の家臣となって横尾を称していた。敬直は姓を波多野に復した。

家督は二男の波多野二郎が継いだ。二郎は海軍軍人(海軍大佐)で、のちに貴族院議員を務めた。三男の波多野敬三は実業家となった。

敬直の孫世代には、俳人の波多野爽波(敬三の長男、本名敬栄)、学習院長の波多野敬雄(敬三の四男)がいる。

小城町長や佐賀市長を務めた野口能毅は、敬直の実弟にあたる。

ほか、次女のアキは内務官僚金森鍬太郎に嫁いだ[39]

脚注

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注釈

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  1. ^ 読みは『平成新修旧華族家系大成』、『議会制度七十年史』による。

出典

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  1. ^ 『官報』 第3027号 「有爵者薨去」 1922年9月2日。
  2. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、523頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  3. ^ a b 永井和 2012, p. 798.
  4. ^ 永井和 2012, p. 496.
  5. ^ a b 永井和 2012, p. 781.
  6. ^ 永井和 2012, pp. 782–784.
  7. ^ a b 永井和 2012, p. 784.
  8. ^ 永井和 2012, pp. 784–785.
  9. ^ 永井和 2012, pp. 795–797.
  10. ^ 『官報』第6754号、明治39年1月8日。
  11. ^ 『官報』第8387号、明治44年6月8日。
  12. ^ 『官報』第8383号、明治44年6月3日。
  13. ^ 『官報』第45号、大正元年9月24日。
  14. ^ 『官報』 第506号号外、大正3年4月9日。
  15. ^ 『官報』第1453号、大正6年6月6日。
  16. ^ 『官報』第907号「叙任」1886年7月10日。
  17. ^ 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。
  18. ^ 『官報』第2816号「叙任及辞令」1892年11月15日。
  19. ^ 『官報』第4021号「叙任及辞令」1896年11月21日。
  20. ^ 『官報』第4807号「叙任及辞令」1899年7月11日。
  21. ^ 『官報』第6076号「叙任及辞令」1903年10月1日。
  22. ^ 『官報』第6695号「叙任及辞令」1905年10月21日。
  23. ^ 『官報』第534号「叙任及辞令」1914年5月12日。
  24. ^ a b 『官報』第3026号「叙任及辞令」1922年9月1日。
  25. ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
  26. ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
  27. ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
  28. ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
  29. ^ 『官報』第4196号「叙任及辞令」1897年6月29日。
  30. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  31. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  32. ^ 『官報』第6754号「叙任及辞令」1906年1月8日。
  33. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  34. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  35. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  36. ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
  37. ^ 『官報』第1037号「叙任及辞令」1916年1月19日。
  38. ^ 『官報』第1299号「叙任及辞令」1916年11月30日。
  39. ^ 人事興信所 1915, か87頁.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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公職
先代
(新設)
学習院評議会議長
1916年 - 1919年
次代
徳川家達
先代
一条実輝
東宮侍従長
1912年 - 1914年
次代
入江為守
先代
(新設)
東宮御学問所副総裁
1914年
次代
浜尾新
先代
小松原英太郎
司法次官
司法総務長官
1900年 - 1903年
司法次官
1899年 - 1900年
次代
石渡敏一
先代
野崎啓造
東京控訴院検事長
1898年 - 1899年
次代
横田国臣
先代
高木勤
函館控訴院
1896年 - 1898年
次代
古荘一雄
日本の爵位
先代
陞爵
子爵
波多野(敬直)家初代
1917年 - 1922年
次代
波多野二郎
先代
叙爵
男爵
波多野(敬直)家初代
1907年 - 1917年
次代
陞爵