藤原俊成女

鎌倉時代前期の女流歌人、藤原俊成養女、堀川大納言源通具の正室

藤原俊成女(ふじわら-の-としなり/しゅんぜい-の-むすめ、生没年不詳:1171年承安元年)頃 - 1251年建長3年)以後)は、鎌倉時代前期の女流歌人新三十六歌仙及び女房三十六歌仙の一人。実父は藤原北家末茂流(善勝寺流)出身の尾張守藤原盛頼。実母は藤原俊成の娘、八条院三条。祖父俊成の養女となった。堀川大納言源通具の妻。皇太后宮大夫俊成女俊成卿女の名で歌壇で活躍、後には侍従具定母三位侍従母、晩年出家してからは嵯峨禅尼越部禅尼と呼ばれた。また、藤原定家の『明月記』においては、後鳥羽院出仕以降出家までは、俊成女の住んだ押小路万里小路宅から押小路女房と記されている。

皇太后宮大夫俊成女 - 嘉永四年版女百人一首

経歴

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実父藤原盛頼が、1177年(安元3年)に発生した鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人藤原成親の弟として責任を問われ失脚、母方の祖父である藤原俊成に引き取られ娘として養育された。1190年(建久元年)頃に源通具の妻となり一男[* 1]一女をもうける。しかし、通具が土御門天皇乳母として権勢を誇る従三位按察局を新妻に迎えるに及んで、行き場のなくなった俊成女は、後鳥羽院歌壇に生きる場を見出す[* 2]。『新古今和歌集』以降の勅撰集定数歌歌合等に多数の作品を残している。1213年(建保元年)出家、以後も歌壇での活躍が続くが、1241年(仁治2年)藤原定家の没後は、播磨国越部庄に隠棲した。1251年(建長3年)以降に書かれた『越部禅尼消息』や、同年9月13夜の影供歌合出詠により、この頃まで健在だったことがわかる。1254年(建長6年)同地で没したともいう[1]

逸話

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  • 彼女の歌でもっとも有名なのは、『新古今和歌集』 恋歌二の巻頭歌に撰ばれた歌[2]

  五十首歌たてまつりしに 寄雲恋   皇太后宮大夫俊成女
したもえに思ひきえなん煙たに 跡なき雲のはてそかなしき

— 『新古今和歌集』 巻第十二 恋歌二
この歌によって、彼女は「下燃えの少将」とあだ名されたという。この歌に代表されるように妖艶な歌が多い。技巧的には『源氏物語』や『狭衣物語』などの物語の内容を取り込んだ本歌取りの歌が多い。『無名抄』によると、彼女が公の席などで詠む歌を思案する場合、何日も前から多くの歌集などを繰り返し見て、気がすむまで見終わると、それらをしまって火をかすかに灯して、家の者から離れてじっくり考えたとある。
  • 彼女と夫通具の蜜月時代の産物と目される『通具俊成卿女歌合』[3]断片が残されている。また、彼女と通具の歌合に藤原定家が加判したという記録もある[4]
  • 隠棲していた越部庄の里山付近(現在のたつの市新宮町市野保)に俊成女の墓所があり、地元では「てんかさん」[* 3]と呼んで知恵の神様として信仰されている。
  • 晩年の『越部禅尼消息』は、藤原為家が『続後撰和歌集』を撰んだことを契機として、歴代の勅撰集についての短評を述べている。この中で、後鳥羽土御門順徳の三院が新勅撰和歌集から排除されたことをかなり強い調子で非難[* 4]しており、その点だけを抜き出し紹介された[5]こともあった。

作品

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勅撰集
歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数
千載和歌集新古今和歌集皇太后宮大夫俊成女28新勅撰和歌集侍従具定母 8
続後撰和歌集皇太后宮大夫俊成女11続古今和歌集皇太后宮大夫俊成女 7続拾遺和歌集皇太后宮大夫俊成女 9
新後撰和歌集皇太后宮大夫俊成女 7玉葉和歌集皇太后宮大夫俊成女 7続千載和歌集皇太后宮大夫俊成女 6
続後拾遺和歌集皇太后宮大夫俊成女 6風雅和歌集皇太后宮大夫俊成女 5新千載和歌集皇太后宮大夫俊成女 5
新拾遺和歌集皇太后宮大夫俊成女 4新後拾遺和歌集皇太后宮大夫俊成女 5新続古今和歌集皇太后宮大夫俊成女 6
定数歌歌合
名称時期作者名表記備考
土御門内大臣通親家影供歌合[6]1201年(建仁元年)3月16日新参[7]勝4負持1不明1[7]
八月十五夜撰歌合1201年(建仁元年)俊成卿女勝4持2
石清水社歌合1201年(建仁元年)12月28日俊成卿女寂蓮と番い勝1
仙洞影供歌合1202年(建仁2年)5月26日俊成卿女寂蓮と番い勝1持2
水無瀬恋十五首歌合1202年(建仁2年)9月13日俊成卿女勝5負6持4
若宮撰歌合1202年(建仁2年)9月26日俊成卿女勝1負2持1
水無瀬桜宮十五番歌合1202年(建仁2年)9月29日皇太后宮大夫俊成女勝1負1持2
千五百番歌合1202年(建仁2年)俊成卿女
影供歌合1203年(建仁3年)6月16日俊成卿女勝1負2
八幡若宮撰歌合1203年(建仁3年)7月15日俊成卿女勝1負2持1
春日社歌合1204年(元久元年)俊成卿女宮内卿と番い持3
元久詩歌合1205年(元久2年)俊成卿女 俊成女藤原宗親と番い持3無判1
卿相侍臣歌合1206年(建永元年)7月俊成卿女飛鳥井雅経と番い勝1負2
賀茂別雷社歌合1207年(建永2年)2月俊成卿女慈円と3番
鴨御祖社歌合1207年(建永2年)3月7日俊成卿女後鳥羽院と2番
最勝四天王院障子和歌1207年(建永2年)
内裏歌合1213年(建暦3年)7月13日皇大后宮大夫俊成卿女負1持2
内裏歌合1213年(建暦3年)閏9月19日俊成卿女藤原家隆と番い勝1負1持1
内裏歌合1214年(建保2年)8月16日皇太后宮大夫俊成卿女勝3負8持4(負7持5とも)
月卿雲客妬歌合1214年(建保2年)9月30日俊成卿女侍従藤原光家と番い勝1負2
院四十五番歌合1215年(建保3年)6月2日俊成卿女勝1負1持3
建保名所百首1215年(建保3年)10月24日俊成卿女
冬題歌合1217年(建保5年)11月4日俊成卿女久我通光と番い負2持5
石清水若宮歌合1232年(寛喜4年)3月25日俊成卿女藤原定家と番い勝3
名所月歌合1232年(貞永元年)8月15夜三位侍従母藤原為家と番い勝1負1持1
洞院摂政家百首1232年(貞永元年)三位侍従母
院御歌合1247年(宝治元年)俊成卿女西園寺実氏と番い勝4負3持3[8]
宝治百首1248年(宝治2年)俊成卿女
九月十三夜影供歌合1251年(建長3年)俊成卿女衣笠前内大臣家良と番い勝2負3持5
私家集
その他
  • 『越部禅尼消息』 (1251年(建長3年)以降):甥(実の従弟)藤原為家に続後撰集に関する評などを送った。
  • 物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。通説では、彼女が三十前後の頃の作とする[* 5]。一方、老境に入っての作とする意見もある[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 堀川具定(1200年(正治2年) - 1236年(嘉禎2年)3月5日)。藤原定家自筆の『公卿補任』中、具定について「母前尾張守頼女」とあることから異論が生じたが、現在では隆頼は盛頼の誤記でも別人でもなく同一人物とされる(石田吉貞 『藤原定家の研究』1957年、「藤原俊成の子女」『国語と国文学』1961年)。
  2. ^ この間の事情について、藤原定家は怒りもあらわに書き記している。「宰相中将権門の新妻と同宿し旧宅荒廃の間 歌芸により院より召すあり」「本妻を棄てて官女と同宿す 世魂在るの所を致すのみ」(『明月記』 建仁二年七月十三日条)
  3. ^ 「定家さん」の転訛か。「てんかさん」の指定名称で、たつの市指定史跡(“市内の指定・登録文化財”てんかさん)となっている。
  4. ^ 「中納言入道殿ならぬ人のして候はゝ取りてみたくだにさふらはざりしものにて候。さばかりめでたく候御所たちの一人もいらせおはしまさず。其事となき院ばかり御製とて候事、目もくれたる心地こそし候しか」(定家さんの撰でなければ手に取る気にすらならない代物です。和歌に堪能な院は一人も撰ばれず、そうでもない院の歌を御製として入れるなんて、もう目の前が真っ暗な感じです。)
  5. ^ 新古今和歌集』への言及がないこと、藤原定家を少将としていること等が理由とされる。

出典

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  1. ^ 町指定史跡 『てんかさま』 1994年3月 新宮町教育委員会
  2. ^ 『新古今和歌集』 巻第十二 恋歌二 01081
  3. ^ 時代統合情報システム”. 通具俊成卿女歌合. 国際日本文化研究センター. 2011年12月7日閲覧。
  4. ^ 『明月記』正治二年九月二十八日
  5. ^ 佐々木信綱 『改訂日本歌学史』 1942年
  6. ^ 安井(参考文献)
  7. ^ a b 永田(参考文献)
  8. ^ 藤川(参考文献)
  9. ^ 萩原(参考文献)

参考文献

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関連項目

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