1931年のグランプリ・シーズン

1931年のAIACRヨーロッパ選手権
ドライバーズチャンピオン
フェルディナンド・ミノイヤ
前年:無し翌年:1932
1931年のグランプリシーズン
前年:1930翌年:1932

1931年のグランプリ・シーズンAIACRヨーロッパ・ドライバーズ選手権のタイトルが懸けられた最初のグランプリ・シーズンである。選手権はアルファコルセフェルディナンド・ミノイヤが制したが、ミノイヤがシーズン中グランプリに勝利することは無かった。現在のFIA世界耐久選手権と同様に選手権は耐久レースで構成され、3つのグランプリは全て10時間の耐久レースとして行われた。長時間のグランプリを走り抜くため多くのチームが複数のドライバーでレースを戦った。

シーズン概要

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シーズン開幕前、前年にアルファロメオでチームメイトのタツィオ・ヌヴォラーリと激しく争い、イタリア選手権を制したアキーレ・ヴァルツィブガッティに加入した。イタリアを代表するドライバーだったヴァルツィがフランスのメーカーと契約したことはイタリア国内で大きな物議をかもした。[1]このシーズン、アルファロメオは最初のモノポスト(シングルシーター)レースカーとなるアルファロメオ・ティーポA英語版を投入した。一方のブガッティは長年活躍してきたタイプ35の後継として新型の2.3Lブガッティ・タイプ51英語版を投入した。注目されたヌヴォラーリとヴァルツィの対決だったが、両者はマシントラブルに悩まされ、最初のヨーロッパ選手権を制したのは堅実な成績を残したアルファロメオのミノイヤだった。7月のドイツグランプリは雨のレースとなり、多くのドライバーが苦戦する中メルセデスSSK英語版に乗るルドルフ・カラツィオラがこのグラン・エプルーヴを制し、世界恐慌の中で悲惨な経済状況に苦しむドイツ国民に明るいニュースを届けた。カラツィオラはこの年のアヴスレンネンとアイフェルレンネンも制し一躍レース界の注目を集めることとなった。

ヨーロッパ選手権グランプリ

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1931年モナコグランプリの勝者はブガッティルイ・シロンだった。
Rd開催日レースサーキット優勝者コンストラクターレポート
15月24日 イタリアグランプリモンツァ・サーキット ジュゼッペ・カンパーリアルファロメオ詳細
タツィオ・ヌヴォラーリ
26月21日 フランスグランプリリナ・モンレリ英語版 ルイ・シロンブガッティ詳細
アキーレ・ヴァルツィ
37月12日 ベルギーグランプリスパ・フランコルシャン ウィリアム・グローバー=ウィリアムズブガッティ詳細
カベルト・コネッリ

非選手権グランプリ

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黄色の背景はグラン・エプルーヴ

開催日レースサーキット優勝者コンストラクターレポート
3月29日 チュニスグランプリカルタゴ市街地コース アキーレ・ヴァルツィブガッティ詳細
4月6日 サン=ラファエルグランプリサン=ラファエル市街地コース フィリップ・エトンスランブガッティ詳細
4月19日 モナコグランプリモンテカルロ市街地コース ルイ・シロンブガッティ詳細
4月26日 コッパ・ピエトロ・ボルディーノアレッサンドリア市街地コース アキーレ・ヴァルツィブガッティ詳細
5月10日 タルガ・フローリオグランデ・マドニエ タツィオ・ヌヴォラーリアルファロメオ詳細
5月10日 ピカルディグランプリペロンヌ市街地コース "イヴァネル"ブガッティ詳細
5月17日 モロッコグランプリアンファ市街地コース スタニスラス・チャイコフスキーブガッティ詳細
6月6日 アイルランドグランプリフェニックス・パーク ノーマン・ブラックMG詳細
6月7日 ジュネーヴグランプリメイラン市街地コース マルセル・ルーブガッティ詳細
6月7日 ローマグランプリリットリオ・サーキット アーネスト・マセラティマセラティ詳細
6月7日 リヴィウグランプリリヴィウ市街地コース ハンス・シュトゥックメルセデス・ベンツ詳細
6月7日 アイフェルレンネンニュルブルクリンク ルドルフ・カラツィオラメルセデス・ベンツ詳細
7月5日 マルヌグランプリランス・グー マルセル・ルーブガッティ詳細
7月5日 ヴォクリューズグランプリアヴィニョン市街地コース フレデリク・トセリブガッティ詳細
7月19日 ドイツグランプリニュルブルクリンク ルドルフ・カラツィオラメルセデス・ベンツ詳細
7月26日 ディエップ グランプリディエップ市街地コース フィリップ・エトンスランアルファロメオ詳細
8月2日 コッパ・チアーノ英語版モンテネーロ・サーキット タツィオ・ヌヴォラーリアルファロメオ詳細
8月2日 アヴスレンネンアヴス ルドルフ・カラツィオラメルセデス・ベンツ詳細
8月2日 ドーフィネグランプリグルノーブル市街地コース フィリップ・エトンスランアルファロメオ詳細
8月16日 コマンジュグランプリサン=ゴーダンス市街地コース フィリップ・エトンスランアルファロメオ詳細
8月16日 コッパ・アチェルボ英語版ペスカーラ・サーキット ジュゼッペ・カンパーリアルファロメオ詳細
9月6日 モンツァグランプリモンツァ・サーキット ルイジ・ファジオーリマセラティ詳細
9月13日 ラ・ボルグランプリラ・ボル市街地コース ウィリアム・グローバー=ウィリアムズブガッティ詳細
9月27日 チェコスロヴァキアグランプリブルノ市街地コース ルイ・シロンブガッティ詳細
9月27日 ブリニョールグランプリブリニョール市街地コース ルネ・ドレフュスブガッティ詳細
10月17日 マウンテン・チャンピオンシップブルックランズ ヘンリー・バーキンマセラティ詳細

1931年のドライバーズランキング

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ミノイヤとカンパーリは同ポイントで選手権を終えたが、ミノイヤの合計走行距離がカンパーリを上回ったためミノイヤがチャンピオンとなる

順位ドライバーITA
FRA
BEL
Pts
1 フェルディナンド・ミノイヤ2639
2 ジュゼッペ・カンパーリ12Ret9
3 バコーニン・ボルザッキーニRet2211
4 アルベール・ディーヴォ37Ret12
= ギ・ブリア37Ret12
= アキーレ・ヴァルツィRet1Ret12
= ルイ・シロンRet1Ret12
8 タツィオ・ヌヴォラーリRet11213
9 ジャン=ピエール・ウィミーユ4Ret714
= ジャン・グピア4Ret714
= ウィリアム・グローバー=ウィリアムズRet114
= カベルト・コネッリRet114
13 [2] ボリス・イワノフスキ5Ret515
= アンリ・ストフェル5Ret515
= ジョヴァンニ・ミノッツィ11315
16 ヘンリー・バーキン4416
= ジャン・ペサト10616
= ピエール・フェリクス10616
= ブライアン・ルイス12416
20 ピエトロ・ゲルシ8817
= ロバート・セネカ9517
22 ゴッフレード・ゼンデル6Ret18
23 クレメンテ・ビョンデッティ319
= ルイジ・パレンティ319
25 フランセスコ・ピローラ620
= ジョヴァンニ・ルラーニ620
= アマデオ・ルジェッリ720
= レナート・バレストレーロ720
= ジョージ・イーストン420
= ルネ・ドレフュス820
= ルネ・フェラン920
= ルイ・リガル920
= アール・ハウ1220
34 ウンベルト・クリンガー821
= ロベルト・ディ・ヴェッキオRet21
= ジェローラモ・フェラーリRet21
= マルセル・ルーRetRet21
= フィリップ・エトンスランRetRet21
= エミリオ・エミレンテRet21
= エドモン・ブーリエRet21
= ジョルジュ・ダルヌーRet21
= マックス・フォーニRet21
= シャルル・モンティエ821
= ”ドゥコロンビエ”821
= フランソワ・モンティエRet21
46 エンツォ・グリマルディRet22
= ”ボーゲ”Ret22
= ルイジ・ファジオーリRet22
= アーネスト・マセラティRet22
= ルドルフ・カラツィオラRet22
= オットー・メルツRet22
52 アルフレド・カニャートRet23
= ”トルティーニ”Ret23
= ウィリアム・スコットRet23
= S. アームストロング-パインRet23
= ジャック・ダンフィーRet23
順位ドライバーITA
FRA
BEL
Pts
結果ポイント
金色勝者1
銀色2位2
銅色3位3
レースの75%以上を消化4
レースの50%以上 75%未満を消化5
レースの25%以上 50%未満を消化6
レースの25%未満を消化7
失格8
参加せず8

参考文献

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Etzrodt, Hans. “Grand Prix Winners 1895–1949 : Part 2 (1919–1933)”. The Golden Era of Grand Prix Racing. 2007年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月4日閲覧。

Galpin, Darren. “1931 Grands Prix”. The GEL Motorsport Information Page. 2007年8月4日閲覧。

脚注

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  1. ^ ノイバウア, アルフレッド 著、橋本茂春 訳『スピードこそ我が命』荒地出版社、1968年、30頁。 
  2. ^ イワノフスキはロシア国籍だが、ロシア革命のために亡命中だった